"すぐに役立つ"生命科学はまやかしではないか? *3

生命科学の科学記事には、社会的な有用性(の可能性)を高らかに謳ったものが多い気がします。

また、研究者や科学コミュニケーションを進める人の中にも、「社会に役立つ」ことを単純に支持してしまう傾向があるように思います。

しかし、それは本当でしょうか?

生命科学にはまだまだ不思議なことはたくさんあります。当たり前ではないことだらけと言ってもいいでしょう。
(何が当たり前かを手探りで決めているところ、というのが現状でしょう。)
だから、個別研究の応用だって、(いつかはその知識をベースに)しほうだいだと思うけれど、何が応用の展望か具体例を挙げろと言われると大変な状況にあります。(漠然と今後応用可能であることは共通見解ですが、何に応用可能かを検討するために研究している、という側面もあるでしょう。)

「応用できる」と言っておられる先生にしても、非常に長い道のりを想定されていたりします。むしろ、役立つと言う応用研究の方が、その具体性ゆえに、応用できなかったりした日には、後から見返して一番役立たない研究となる可能性が大きいでしょう。
総当たり式に10万サンプル試して失敗するような応用研究をやりはじめて1万サンプルで挫折するよりも、基礎研究で絞っていって(全体の仕組みを理解していって)1000サンプルの中に当たりがあるという可能性までに絞り込んだ方が、後から見れば役に立ちます。

生命科学のほとんどの領域が、まさに今その段階にいます。

そしてむしろ、生命科学で30年後に全く役立たない研究をすることの方が、難しいと思います。

例えば、生き物に名前を付けている人が居なかったら、今の生物学はそもそも成り立ちません。

すべての認識の基本に名前を付けることがあります。

同様に、例えば、糖鎖がどうなっているか、漠然とどういう機能か、という[命名]をしなければ、後の生物学は全く成立しません。

ほとんどの生命科学(基礎科学も)は、今、[命名]の段階にいます。

これに無理に理由を押し付けるのはナンセンスなのではないでしょうか。


という文を書いていたら、「生化学」2005年9月号(77: 1133)のアトモスフィアという巻頭言欄に、東工大の吉田賢右先生が「意見と思いつき」という文章を書いておられました。一部を引用させていただきます。

可能性コメントのまやかし
 科学の発見を伝える新聞記事やテレビのニュースで、発見者が「これはガンの治療に役立つ可能性がある」などというコメントを述べることがよくある。これは無責任なコメントである。もし可能性を言うなら、実際どれくらい実現可能なのか、専門家としての見識をかけて述べて欲しい。10%の可能性と0.001%の可能性では全く意味が違う。可能性が全くない、という証明は難しい。だからといって、一般の素人(及び行政)向けに「可能性がある」というコメントを乱発するのは真面目な態度ではない。

科学の発展段階と研究費
 当たり前のことだが、いくら研究費を注いでもできないことがある。例えば、両親が進行性のガンになれば、もっと科学が進歩してガンをなおせないか、と誰しも思う。そこで、政治家がガンの研究費を倍増するといえば、それは無条件に結構なことだ、となる。しかし、ガンの原因治療はプロジェクトX(既存の知識と技術を有効に組織し工夫奮闘して目的を達成する)で実現できる発展段階に達していない。むしろ、どこに突破口があるのか分からない段階では、幅広くいろんな分野に研究費をばらまくことが必要である。政治家は(そして一般の人も)それがわからない。科学者は、自分の分野に研究資金が流れ込む誘惑に抗して、専門家としてこの事情を指摘する責任がある。

まさにその通りだと思います。

自らの手で「役立つ」所までやり遂げるのなら話は別ですが、多くの研究者はそのような状況にないのですから、専門家として、「いかにすぐには役立たないか」を正しく伝えていく必要があるでしょう。