こんなところに感情の分かれ目 / 科学の必要性を重視する人が科学者になる
魚群から大きい個体ばかりを漁獲していると、魚群の小型化や生命力の低下を招き、水産資源の崩壊につながる恐れがあると、米・ニューヨーク州立大ストーニーブルック校と東京農業大生物産業学部(北海道網走市)の共同研究チームが実験で突き止めた。
養殖まんせー。
この話の前段階にある話として、"市民"の色眼鏡で見ると、
「大きな魚の方が売れるから、漁民は大きな魚ばっかり取る。まったく商業主義ってやつは…」
という話になりがちだ。
でも、
「小さい魚はまだ大きくなる余地があるので、根こそぎ取らず、小さな魚だけは取れても再放流して残してあげよう。」
って流れで起こったのだとすると、良かれと思ってやったことがうまくいかなかった話になる。
同じ記事を見て、元からある先入観と情報で見方が変わってくる。そういうことの積み重ねって言うのはやっぱり大きいのだと思う。
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例えば、これが新技術だったり、分からないことがたくさんあったりすると、「もうこんなもん悪そうだから、ともかくやめちゃえばいーんだよ」って話にさえなる。
普通に生きていると、新しい科学はもう必要ないように感じて、特に考えようとしなくなる。
でも、科学のこれ以上の発展無しにこのままの生活が続けられるほど、世の中甘いもんじゃない。
人間は科学・技術発展の自転車操業で生きている。
人間が生物の中で何で生きていられるかと言えば、感情でも社会性でもなく、論理的に考え、メタ思考できるところなわけだ。
そして、そういう世界観を持った人は、生きる道として科学者やその関係の職業を取りやすくなる。
で、そうすると、利害関係者になってしまって、中立的に発言しにくくなるんだけど、「それでも地球は回っている」と思う。
ま、そういうことじゃないかと。(厭世的…?)
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