ラテラル・コミュニケーションとその活性化

研究者間コミュニケーションの必要性

前々回、生命科学とブログの現状と今後では、社会と研究者間のコミュニケーションに注目して話を進めた。しかし、以前から僕は根源的な問題はそこにないのではないかと感じている。

いわゆる「蛸壺化」に伴い、現在では学部〜修士卒業レベルでも専門以外の分野間で深い断絶があります。そこで、一般-科学者よりも先に科学者-科学者のコミュニケーションに力を注ぐべきかと思い、活動しています。

mixiの僕の自己紹介

そして、研究者-研究者コミュニケーションがあまりテーマになっていなそうだったことが、湘南セミナーにはわざわざ参加して、生化学若手の会に企画長として関わっているにも関わらず、通学先の駒場キャンパス内で開かれていた科学技術インタープリター養成プログラムに参加しなかった理由でもある。


研究者-研究者間コミュニケーションについて最も鼻につく(そして重要な示唆を含んでいる)のも、前回の「新しい高校生物の教科書」の書評」でも述べた遺伝子組み換えの問題である。

例えば、養老孟司氏は「いちばん大事なこと」で、

 手入れは化粧だけではない。子育てもまったく同じ原理である。自然は予測不能だと述べた。子供の将来を予測することは、完全にはできない。だから母親は毎日、ガミガミいう。「やかましく、うるさく」人道を説く。それでも思いどおりの大人になるかどうか、そんな保証はない。しかしそれ以外にやりようはない。田畑で働くのも、まったく同じだということは、もはや言うまでもないであろう。「手入れ」とは、生活のすべてを包含する原理だったのである。
 もちろん「手入れ」というのは、だから加減が難しい。たとえば、里山は多くの生物からなり、刻々と姿を変える複雑なシステムである。そのシステムをいつも良好な状態に保つには、相手のおかれている状態を知り、これからどのように変化するかを、あるていど予測しなければならない。それには対象と頻繁に行き来し、相手のようすに合わせて手の加え方を決めていく必要がある。「システム」というものの特性については、次章で詳しく論じるが、「手入れ」とは、バランスを崩しやすいシステムに、加減を見ながら手を加え、システムを強固にしてやることなのである。
 「手入れ」とは、自然にいっさい手を加えないという環境原理主義とは対照的な考え方である。人間と無関係な自然はありえない。人間と関係をもってしまった自然にはきちんと手を入れ、自然のシステムを守ってやらなければならない。

いちばん大事なこと pp.101-102

と、そのままでなく「手入れ」することの重要さ、そしてあれこれ頻繁に「手入れ」の方法を試行錯誤する重要さについて述べている。にも関わらず、

遺伝子組み換え作物も、働きのわかっている遺伝子を利用しているだけである。特定の農薬に対する耐性をもつ遺伝子をトウモロコシに入れ、その農薬を撒けば、トウモロコシ以外の植物は死んでしまう。農薬の使用量が少なくてすむという利点はあるが、システムという観点から見ると問題が多い。トウモロコシが本来もっていない遺伝子を入れたことで、トウモロコシという生物のシステムはどう変わるのか。自然界に存在しないトウモロコシが栽培されることで、周囲の植物や、土壌生物、昆虫などはどんな影響を受けるのか。この遺伝子が他の生物に入り込んでしまったらどうなるか。こうした問題が全て解明されたわけではないのに、遺伝子組み換え作物が栽培されている。遺伝子という固定された情報だけで、生物を操作することの危うさは、言葉で国民を捜査したヒットラーのやり口に似ているのである。

いちばん大事なこと pp.125-126

遺伝子組み換え作物を批判している。

しかし、この批判は全く的を射ていないことは、「新しい高校生物の教科書」の書評でも述べたとおりである。簡単に繰り返しておくと、遺伝子組み換え作物以外の多くの作物も、<改変により生物のシステムはどう変わるのか。自然界に存在しない作物が栽培されることで、周囲の植物や、土壌生物、昆虫などはどんな影響を受けるのか。この遺伝子が他の生物に入り込んでしまったらどうなるか。>については全く検討されていない。しかもゲノムレベルで一番いままでの作物と近いゲノム配列をもった作物は、他ならぬ遺伝子組み換え作物と考えられるのである。田舎の風景を今や形作っているイネでさえ、元は日本のような寒い地域では育たない外来種であることを考えると、作物を改変することと人間文明の密接な結びつきが判るだろう。遺伝子組み換え作物とは、最小限の手入れによって自然とうまくやっていくための、人間文明に欠かせない試行錯誤なのである。(ちなみに養老氏はもう一つ誤解をしていて、農薬耐性の遺伝子を入れれば何でも農薬耐性になる作物ができるとお思いのようだが、それは誤りである。沢山の試行錯誤と「生命システムの解析」の後に、結果として農薬耐性が得られるものを得るという部分は従来の作物の作出法と変わっていない。)

もしこれを「言葉で国民を捜査したヒットラーのやり口に似ている」というのならば、母親が毎日、「ガミガミいう。やかましく、うるさく人道を説く。」など、危険な集団ヒステリー的洗脳に他ならない。

養老氏以外にも、池内了氏なども著書で稚拙な遺伝子組み換え反対論をかいており(結局の所、文明批判、環境原理主義そのものの精神を抱えているが、本人は気づいていない)、その割には医学者や数学者などご自分に関係した広い分野では環境原理主義的な思考を批判していたりする。専門家兼インタープリターのようなふりをして、特段学んでいない分野に、お手軽にしかも一方的に言及しようとすると、突然、化けの皮が剥がれるのである。(前回の科学コミュニケーションの練習問題としてのタイラーズ新技術を受容するにはも参照のこと。)

だが、実は単なる不勉強のインタープリターの一方的な発言なのにも関わらず、社会は「専門家の発言」と受け取る。このように、社会-研究者間のコミュニケーション不良は、実は研究者-研究者間のコミュニケーション不足が原因となっていることも多いと考えられる。日常的なフィードバックがある中で、研究者が他の研究者につっこみを入れあって大体の共通合意を見ておくことが、社会と研究者間のコミュニケーションにも重要なのである。

「ラテラル・コミュニケーション」

そんな中、一つのバズワードが登場したようだ。「ラテラル・コミュニケーション」である。

 N木さんとの話の中で、科学技術コミュニケーションに関して、異分野の科学者同士のコミュニケーションが欠けている現状の話がちょっと出てきました。CoSTEPなど科学技術コミュニケーションを標榜するグループは、今まで主に科学者と市民の間のコミュニケーションについて心を砕いて来ましたが、最近になって「実は異分野の科学者同士のコミュニケーション不足はもっと深刻なのではないか」という声があちこちで聞かれるようになってきています。

 科学者と市民のコミュニケーションが縦の(ロンギチューディナル)なコミュニケーションだとしてら、科学者同士の横のコミュニケーションはラテラル・コミュニケーションとでも言ったら良いのかも知れません。

 N木さんも、数学者は他の分野の研究者の役に立てるようなツールをたくさん持っているにもかかわらず、なかなかそれを必要としている研究者と出会うチャンスがない、というようなことをおっしゃっていました。

 ラテラル・コミュニケーションは、今年の科学コミュニケーションのキーワードのひとつになりそうな気がします。

5号館のつぶやき ラテラル・コミュニケーション

まさに、僕もラテラル・コミュニケーションの推進に何か一役買いたいと思っている。

「ラテラル・コミュニケーション」の実例

ラテラル・コミュニケーションを考えるにはまず、研究者の実態・生態を考える必要があるだろう。

まず、一番大きな層が、企業などで働く研究者の層である。日本はかなり研究者の比率の高い国である。蛸壺的とはいえ、一度何らかの研究に携わった人々に、最新の知識を得てもらう機会を提供することは重要である。これは従来までの科学コミュニケーションでも「上級者」として視野に入れられてきた所だろう。

この層にリーチするには、

などが重要である。

そして、これらの企業で働く研究者層を生み出す「(就職も考える)学部生・修士の大学院生」に、より広い視野に立った科学の現状を討論してもらうことも重要である。例えば、

  • シンポジウムや生化若手の会のような講演会
  • 大学レベルの教科書、授業の充実
  • 生命科学者に数学を、数学者に生命科学をもっと知ってもらうための再教育の場

は現在も存在しているが、より広げていく施策が必要であろう。

東大においても、学部3〜4年生は、驚くほど研究という職業や「何を研究するか」について無知だし、修士の大学院生といえども、自分と関係のない分野(=頑張っても特に評価されない)については全く関心がなく、「勤勉に実験することが唯一の価値」という教員に都合のよいロボット化の思想に魅力さえ見いだしている。これをどうにかしなければならない。

また、一番取り組みが遅れているのは、目の前の仕事に追われる大学院博士課程生〜教授が、いかにして広い他分野の研究と交流する気持ちになるかというところである。

これについても、以前から一部の文化的な先生は元々実践していることである。例えば、学会などは格好の場所であり、一部の先生方は自分と関係なさそうな分野にも積極的に質問に行く。ただ、研究者も単なる特権階級の趣味でなく、安定した職業として理解(誤解?)され、増員が図られ、しかも多忙な昨今では、そうした積極的な先生は一部なのが現状である。また、科学の共通語が日本語でないことや、背景知識の理解に欠けていることも大きな壁となっている。

これらの問題に対する僕の唯一の実践は、生化若手の会夏の学校の「実践系」講座である。近年、生物研究のためにはバイオインフォマティクスという分野の知識が実験技術と同様に欠かせないものになってきているが、生命科学者には数学をあきらめてその分野に進んだ人も多いため、あまり交流が進んでいなかった。そこで、単に先生の話を聞き流すだけでなく、自らのパソコンで実践してもらう講座を開講することで、違うと思っていた分野の技術も自分のものとして有効活用してもらうことを意図したのである。結論としては、「なかなか溝が深かった」という感想であったが、今後もこのような取り組みを行いたいと考えている。

円滑な「ラテラル・コミュニケーション」の実現のためには、自分の研究の促進に「も」つながる情報を含む内容を、いかに効率的に(無駄だと思わせずに)流通させることが出来るかが重要である気がする。そして、そのためには、研究者に浸透しつつあるインターネットの活用は欠かせないと考える。

bioinfomatics-jpにみるブログ-mlコミュニケーション

僕が丁度、生命科学とブログの現状と今後を書いたころ、bioinfomatics-jpメーリングリストでは研究者間コミュニケーションに関する重要な視点を含むと思われる論争が盛り上がっていた。

話は昨年にさかのぼる。

バイオインフォマティクス ゲノム 配列から機能解析へ 第2版」という、それこそbioinfomatics-jpのメンバーには貴重で心強いバイブル的教科書ともなると思われる本が、昨年12月(2005.12)の分子生物学会から先行発売された。
この本は、bioinfomatics-jpでよく投稿するエロい人達も多く執筆に関わっており、少し前までならまさに発売の報がmlに投稿されるような内容であった。実際、2002年5月の第1版の発売時には訳者によりmlで発売の報が流されていた

しかし、今回は違った。訳者らの心は、既にblogというツールに移行していたのである。

そんな中、2006年1月19日、そのメールは投稿される。

さて,とても重宝している「バイオインフォマティクス ゲノム
配列から機能解析へ」の第2版が出版されているのを大学生協の本屋で
見つけました.
(中略)
#<訳者>が宣伝してくれなかったせいで,気がつくのに1ヶ月かかりました :-)

bioinfomatics-jp 3002

これに対し、訳者らは

なんでMLに流さねーんだ、みたいなコメントがあったが、ここにさんざん書いたので、MLに流すのもくどいし。

chalk-less::weblog::thecla 2006/01/19

Bi2eの情報
メーリングリストに流れた。僕はメーリングリストではもう本の紹介はしないので、あしからず。

僕が「宣伝してくれなかったせいで」と書かれて非常に不愉快。僕はそういうところに宣伝する義務があるのか?そんなメーリングリストならもう要らない。すぐにでも潰したい。

某のウェブログ 2006/01/19

などと一斉に反発した。

実際、2003年前半頃からbioinfomatics系の研究者のブログは開始され、2004年にはかなりの数になっていた。また、当初、はてなアンテナに次々に登録していくことで更新情報の一元化が図られたが、2005年前半にはbloglinesなどのRSSリーダーの普及やはてなリングの開設などによって、お手軽に自分好みの沢山のブログが読めるようになっていた。一方、mlはといえば、2002年には612通あったbioinfomatics-jpの投稿も2005年には280通に減少しており、「mlは役割を終えていこうとしている」と考えても無理はない。

今回訳者らは、「バイオインフォマティクス ゲノム配列から機能解析へ 第2版」の発売前からブログ上で継続的に宣伝していた。(例えば、ichan::Weblog某のウェブログなど。)

そして、ml上で訳者の1人は反論と共に、再びはてなリングの紹介を行った。

前にも流しましたが、Hatena::Ring::Bioinformatics
http://bioinformatics.ring.hatena.ne.jp/
には多くのバイオインフォマティクス関係の方々のブログへのリンクが
集められています。そういうところから最新の情報を集めるようにすると
気がつくのに1ヶ月はかからないと思います。

bioinfomatics-jp 3008

それに対し、冒頭の発言者は

たしかに興味深いブログの集まりではあるのですが,当然のことながら
ブログにはバイオインフォマティクス以外の記事もたくさん書かれてい
ます.

バイオインフォマティクスに関するものでも,
 「昨日は徹夜でウェットの実験をした」とか
 「午後からバイオインフォマティクスの講義に出た」
という記事では読んでも役に立ちません.
(「ブログにこういう記事を書くべきでない」と主張しているのではあ
りません.)

ブログは,私には SN 比が小さく感じられるため,ほとんど
チェックしていません.


Mac に関する情報を集めた APPLE LINKAGE のように,バイオイ
フォマティクスに関する情報を集めたサイトかブログがあるとうれし
いです.
http://www.applelinkage.com/

どなたかご存知でしたら教えてください.

bioinfomatics-jp 3010

と、生命科学とブログの現状と今後で述べたような、ブログに対する一般的批判を展開した。

これに対し、訳者らは

ご質問への直接的な回答ではないとお感じになるかもしれませんが、
すでに情報を集めたサイトを利用するのもよいかと思いますが、提供さ
れている情報をご自分で上手に取捨選択し、収集するのもよいかと思い
ます。

bioinfomatics-jp 3011

おそらく坊農さんが言いたいことは、情報は自分で集められるよ、
ということが真意だと思います。〜はないか? 〜してほしい、という
のも大切ですが、情報を集めることに関しては、自分でいろいろ工夫が
できる時代でもあるのではないでしょうか?

bioinfomatics-jp 3012

と、「情報を自分で収集すること」の重要性を説くと共に、

RSSリーダーでキーワードによるフィルタリ ング機
能をもつものがありますから、そういったものを利用されるのも一案か
と思います。

bioinfomatics-jp 3011

ソーシャルブッマーク経由でご覧になってはどうでしょうか。

http://b.hatena.ne.jp/t/bioinformatics
http://del.icio.us/tag/bioinformatics

を見ると、一度人の手が入りますので、少しはSNが高くなると思いますよ。

リングを経由すると、SNはあまり上がりませんが、bioinformatics関連の
ブロガーがどんなことに興味があるか、という少し緩めの網をかける
ことができます。

http://bioinformatics.ring.hatena.ne.jp/hotentry

(そもそも上のリングはNのほうをアグリゲートするのが目的です。)
bioinfomatics-jp 3012

とネットにおける最近の一般的解決法を示し、一応の納得を得た。

しかし、個人的にこの解決策は2005年後半から2006年前半にかけてのbioinfomatics分野でのみ通用するテンポラリーなもののような気がする。ソーシャルブックマークはブックマークする母集団の質が重要であり、人数が多すぎても少なすぎてもうまく機能しない。

ということで、長々と書いてきて答えはないわけだが、このような問題をクリアーして、インターネット上での日本語で幅広い研究情報のやりとりを活発化させることが、ラテラル・コミュニケーションに重要ではないかと考えている。