選挙の楽しみ方と笑いについて

とめどなく、週末に思ったこと。
「笑い」というは本質的に背徳感の一種かな、ということ。自分以外が決めたルールではなくて、自分が自分を守るために課しているプチルール。つまり、(そこを踏み誤ると、大変なことになるぞ)と暗黙すれすれで思っている心理的障壁。そしてそれは対人関係で日常的に一番使っている思考回路。その障壁を破るスリル、破り終えた緊張感の揉みほぐし、破ってどうなったかというギリギリの知的興奮、それが笑いの本質かなと。(敢えて具体例は割愛。)

プチルールは、自分を見るメタ自分、メタメタ自分、メタメタメタ自分…の結晶でもある。そうそう、僕がよく中高時代「恥ずかしい」のではないかと思ったのが、「俺、勉強もスポーツもできるんです」像であった。
「勉強ができる」なんて何か親に媚びてるだけみたいで、恥ずかしい、というのが当初のメタ自分的発想。とすると、むしろ「勉強なんて全然だめ」みたいなスタンスも出てくるわけだけれども、「それって何にもできないの?」とメタ自分は葛藤する。その結果、「スポーツマンでいく」という路線を目指しつつ、「勉強もできる」険しいレースを勝ち抜いてその勝者になるという考え方が出てくる。両立すればメタ自分も満足する。
でもでも、両方できる能力も、自分を外から見るメタ自分が育っているというアピールもいいのだけれど、「スポーツマンで勉強ができること」と「それ以外のこと」の総合的バランスを考える上で、むしろスポーツと勉強にばかりエネルギーを使うのは、依って立つ価値観が宙ぶらりんのままじゃねーの?メタ自分を見るメタメタ自分が育ってない証なんじゃないか、と。これはメタメタメタ自分的に恥ずかしいことだ。
ただ、これっていうのは案外難しくて、メタメタ自分の成長を出力するには、あんまりトップとかは取らない方がいい。ビリもいまいち。中庸というと、「中庸思想に安住するメタ自分」の存在を認めてしまうので、残る選択肢は「力を入れないところはランダムでいく」しかない…。
んでこの話、この後は「そこまでするプチルールやらメタ自分世界やらの実効的影響について」延々考察することになるのだけれど、長いのでやめる。選挙の投票行動の楽しみ方の話をするのだった。

僕たちは選挙の投票行動で議員を選ぶことによって意志表明をするよう求められているが、これはなかなか難しい。国政選挙ならともかく、都議選ともなると「候補者の誰にも決してやらせたくない、よくも酷い人ばかり集めてきたな」という惨状であることが多い。
だから、党レベルで選ぶって人も沢山いるようだ(そしてそんな人はちゃんと選挙に行く)。でも、党だってどう考えても大したもんじゃない(気がする)。どこか一つの党を選ぶなんて恥ずかしい(気がする)。すると、ここら辺で最初に戻って、駄目な中でも何となく許容する人に入れるか、もしくは投票に行かないか、という感じの雰囲気が漂う。あるいは、日常のストレス発散に、一番勝ちそうな人に投票するという現象も見られる。そこで、、、

僕はこんな風にして選挙を楽しんでいる。
1.まず雰囲気なども加味して徹底的に選挙結果を予測する。(結構順位まで当てている。)
2.順位予測から、当落線上ぎりぎり(基本的には少し上)の、投票しても良い、あるいは、投票結果を新聞が解析するときに影響がありそうな(自分の主張が新聞に載りそうな)人に投票する。
そうすると、
A. 選挙区の順位→予想と現実とのギャップを確かめる緊張感
B. 投票した候補の当落→当落線上を引き上げ結果を変えた(かもしれない)充実感
C. そして、その結果、新聞の見出しを変えた(かもしれない)満足感
D. (究極の選択的に)選びたい人に入れたわけではない背徳感に裏打ちされ「込み上げてくる笑い」
を一挙に得られるのである。