みっくすじゅーす

日々安定した心持ちで過ごすには、日々やっていることがミクロとマクロで同じ方向を目指していることが重要な気がする。そういう意味で僕の今研究しているミクロなことは、自分の大局的な倫理とか、明らかにしたいことと、今のところ僕の中で結びついていて、そこは良いところである。

論文を読む限り、僕と似たマクロな目標を目指している研究グループがアメリカに1グループはいて、この前もそこの最新論文を読んで心が沸き立った。彼らの心を沸き立たせるような独自の研究をし、いずれは彼らと共同でも研究してみたい、というのが当面、中くらいに掲げている目標だろうか。心が沸き立つなんてなかなか無い。生物実験は結果を出すための前準備に何ヶ月も時間がかかるのが普通なので、前に進んでいるかどうかよく分からないままコツコツと準備をしながら、じっとりと熱く、濃厚に胸をときめかせるのだ。

細かな研究計画が大局な方向性と一致すると、むしろ大局的な方向性がミクロなそれと比べて現実性を欠き、重きが置かれなくなる。そればかりか、生物学者という職業は、大局的な方向性に制約条件を課しているようにも思う。

それは、大腸菌の増える時間に振り回されて毎日忙しいとか、終身雇用とは正反対に同じ研究機関に長くはいられないとか、一生を通してそんなに給料には恵まれないとか、そういった物理的な制約だけではない。精神的な制約にも及ぶ。たとえば、経済や「普通の幸せ」を参照すれば、子供は1〜2人が普通なご時世な気がするが、動物行動学や進化を学んで育った中堅の生物学者には子供が3〜4人いる人が少なくないように思う。人間として生きるという大命題は、2人以上の子供を持つという小命題を欠かすことができない、というのは生物学者にとってクリティカルな意味を持つのかもしれない。人間が必ず死ぬというのも当たり前の話で、それを突き詰めていくと池田清彦の「やがて消えゆく我が身なら」な感じになったりする。見回してみれば、辺りのありきたりな幸せ像は身も蓋もなく解体されてしまっていたのだ。


…なんて言ってみるのは、昨日会った社会人1年目の人が、多分人生最大の「モテ期」を謳歌していたのと無関係ではない。ついこの前まで僕と同じような研究生活を送っていた。来月から3〜5年、どこに行くのかはまだ教えてもらっていないらしいが、そんな仕事のことは関係ないようだった。語られる休日と恋愛中心の生活に、「普通の幸せ」をみた。そしてその幸せは社会人というマクロのレールに支えられ、固定されている。

そうだ、と口ずさむ。
♪ミックスジュース ミックスジュース ミックスジュース
コイツをググッと飲み干せば 今日もいい事あるかもね

僕たちの健康の秘訣はミックスジュースだった。