2つの生き方

よく、「日本という国をここまで成長させてくれた先人に感謝」みたいなことが言われる。が、これは本当だろうか?

満ち足りた時代、分かりやすい「生きる目標」は共有されていない。端的に言えば、若者が生きる意味が存在し得ないのだ、共通合意としては。人間が生きている旨みは、前より全体として成長できた喜びとする。すると、成長させたという結果ではなく、成長させた行為そのものに人間的な価値があるのである。結果にそれほどの価値はない。位相満足社会は速度不満足社会。そりゃニートだ、そりゃ出生率低下だ、そりゃ学力低下だ、そう常々思っている。

ただ、これは「全体で成長できた喜び」に価値を置いていること自体がいけない、というのが昨今の反論である。世界に一つだけの花、である。自分の世界により成長を感じることができればいい、という生き方の重視である。むしろ生きていること自身に生きる意味を感じる生き方かもしれない。実はこれも昔からある大切な生き方である。この生き方をどう延ばしていくかが全人類的な課題かもしれないと思うこのごろである。

話変わって、実は生物学という研究もこの2つの生き方から逃れられない。そう意識化させてくれたのは近藤滋という先生であった。

彼は細かい「分子機構」を調べることに意味を感じないという。当然調べる人は「不思議だから」「本質的なことが分かるから」調べていると言っている。が、「分子機構」を調べても、動物ならば治療の役に立つことはあるにしろ、本質的には何も分からない。細かく分かって後に残るのは努力とお金の結晶、まさに世界に一つだけの花だ、というのだ。

細かい異論反論はあるにしろ、大筋として(一人の人生の枠で考えると)この意見は正しいのだろうと今は思っている。

そこで自分の生き方はどうするか…ということになるのだが、まぁ、それはまたいつかに取っておこう。