医学者は公害事件で何をしてきたのか*1

湘南セミナーでも講義を受けた津田敏秀先生の 「医学者は公害事件で何をしてきたのか」 を読んだ。

医学者は公害事件で何をしてきたのか

医学者は公害事件で何をしてきたのか

水俣病と行政、医者、研究者の関わりについての本。

水俣病ではかなり早い時期から水俣湾の魚介類が原因であることが共通認識であった。そこで研究者たちは「その汚染源が工場排水ではないか」という疑惑の真偽や、「どんな物質が病気を引き起こすのか」の解明に全力を注いだ。行政も「水俣病の原因」や「因果関係」が科学的に証明されなければ対策は講じられない、として研究者の結果が出るのを待った。そのため、水俣湾の魚介類についても「すべてが有毒化しているという明らかな根拠が認められない」として、行政は何ら規制を行わなかった。

しかし筆者は、「水俣病は食中毒事件として処理すべきだったのではないか」、すなわち、早期に原因食材として判明した水俣湾産の魚介類の採取、流通、摂食などを既定法である食品衛生法によって規制すべきだったと指摘する。そもそも、病因やメカニズムの解明は対策に必要なく、疫学的に原因食材と病気との因果関係が示されることだけが、唯一の対策の一歩である(そして、このような調査を行政は意図的に行わなかった所に大きな責任がある)と説いている。実際、原因食材として回収される食品の全てが病因物質をふくむことはまずない(元気な鳥も処分される)。原因食材という一群を(多少大雑把でも)回収し、病気のさらなる拡大を防ぐというのは、今のところの大いなる知恵である。

だが、これと同じ構造の過ちは、水俣病の診断でも行われた。
よく分からない間に「水俣病の専門医」なる神経病理学の医者達が登場し、水俣病患者の病理学的な「定義」を決定、法律ができる。その法律では、水俣湾周辺にいて、魚を食べ、明らかな神経疾患がでた者についても、病理学的な「定義」に沿わないからという理由で水俣病に認定されなかった。また、医者による「総合的判断」という言葉が発明され、乱用された。

しかしここでも筆者は言う。水俣湾周辺にいて、魚を食べ、明らかな神経疾患がでた患者というのは、まさしく水俣病の定義であって、この患者を含まないような定義は定義が間違っている、と。すなわち、病気の定義を決定するのは、「定義に当てはまる患者数[患者-正常者比率]が疫学的に他の地域やこの地域のレベルを大きく上回っている」という疫学的証拠であって、病気のメカニズム、原因や症状の見極めから定義が著しく変更される必要はないのである。

また、医者や研究者は「メカニズム解明」でふって湧いた研究資金や、はたまた競争的資金獲得という「業績」のために、行政の責任追及を遅らせるための「メカニズム解明」(しかも、これは早期の対策には何の役にも立たない)に深く荷担していると述べて、行政が握る競争的資金のあり方について疑問を投げかけている。


これを読んでて思うのが、

 (1) 「メカニズムの解明」って意味無いの?

 (2) 研究者と研究資金…難しい問題だなぁ。

 (3) 水俣病の時に「すべてが有毒化してるとは限らない」って言ってた役人とか学者っていうのは、本当にそういうことを信じて言ってたんだろうか?

 (4) この疫学って方法で行くと、いつも回収したり最初に損害を負うのは(分析しにくい)自然を相手にしている一次産業の人なのではないか?

の4点。

まず(3)なのだけれど、僕は「意外と信じていたんじゃないか」に1票。

役人も学者も「科学的にメカニズムを解明」という言葉に、すごく輝きを感じていたんじゃないか、と思う。
もちろん、現在に至って、もっと実情を経験している今の研究者には全くリアリティーが無い幻想なのだけれど。
「すべてが有毒化してるとは限らない」状況の中、食中毒として扱ったときに必ず発生する大量の漁民の活動停止という「現実」のプレッシャーに比べて、時間が稼げる「メカニズムの解明」は信じないとやっていられないくらい依存的な輝きを増した幻想なのではないだろうか。


そして思う。

こんなとき、片っぽのリアリティーだけじゃなくて、選び取りそうになっている選択肢の先を、英知を尽くして具体的に想像(シミュレート)してみることが、多分すごく重要なのである。

きらきらした期待感の閃光の先に足を踏み入れたときは、「じゃあどうすればいいの?」という他愛ないささやきで少し踏みとどまるくらいが丁度良い、そんな気がする。
ま、ま、んなこと言いながら、たまの火遊びもいいかも、何て突き進んじゃうかもしれないとも思うんだけどね。