脳って、Windowsプログラミングみたいなもんなんじゃないの?

自我はどこにあるか?

「統一的に人間をコントロールできる感情や精神活動の総体」=「自我」は「どこにあるか?」という問いは長らく根源的な問題とされてきました。しかし、自我に対して「無意識」を設定しなければならないほど、切れ味の鈍い考え方だったのは否定できません。

例えば、爪って切りますよね?あれって、自分ですか?切っても自分ですか?実は自分とその他の境界ってやつは全く線引きできません。

例えば、普通、太ってしまうのは自我が弱いからだと言うことになりがちです。しかし、胃を半分切除すると、自然に食事の量が変わり、究極のダイエットだと言われています。

太りゆく人類―肥満遺伝子と過食社会 (ハヤカワ・ノンフィクション)

太りゆく人類―肥満遺伝子と過食社会 (ハヤカワ・ノンフィクション)

じゃあ、食べ物を食べることを指示する「自我」は胃に宿っているでしょうか?しかし、食べ物は極めて「自然に」減らせてしまって、意識にも上らないと感じるようです。

こんな例もあります。「見えない位置で自分が動かした手」と同じ動きをする他人の手をみると、人間はそれが自分の手であるように感じてしまいます。自分の範囲や自我が動かせる範囲というのは非常に曖昧なのです。


あれ?自我なんて無いんじゃないの?


と考えるのが普通なような気がしますが、それでも世の中では、自我ってものが「必ずあって」、しかも脳にいて、色々コントロールすると思われてきました。そして、そのコントロールの仕組みはどうなっているのだろう?きっと特別なはずだ。。。でも、脳を切っても切っても特別な受信機は出てこないぞ???と謎を混迷させるのが、これまでの脳科学者の役割でした。しかし、それにメスを入れる本がいくつか何年か前から出てきています。


ユーザーイリュージョン―意識という幻想

ユーザーイリュージョン―意識という幻想

Passion for the futureの書評:
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001933.html

脳はなぜ「心」を作ったのか―「私」の謎を解く受動意識仮説

脳はなぜ「心」を作ったのか―「私」の謎を解く受動意識仮説

Passion for the futureの書評:
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004066.html


特にこの2冊は発売当初から「先にかかれたー」てな感じの内容の本で、たぶん、すごく当然のことが書いてあると思います。

小人とかクオリアの神秘とか、研究費稼ぎのバズワードに過ぎなくて、脳はただ眈々と各部位で処理できる情報をそれぞれ処理しているのだと。行動する前には統合なんてしてないんです、行動する前に統合している自我なんて無いんです。自分の自我が統合していると思っているのは人間だけ。。。じゃあ、その謎解きをしていきましょう。

脳を左右に分けると、左右の手が違う行動をする

昔はてんかんの治療などを目的に、左右の脳をつなぐ脳梁という部分を切断する手術が行われていました。その手術を施された患者は後に様々な症状を示すことが分かり、研究されました。その一つの結果が、「脳を左右分けると、左右の手が違う行動をする」ということでした。例えば、洋服ダンスの前で今日着る洋服を選ぶ女性患者は、服を取ろうとすると左脳に支配された「右手くん」と右脳に支配された「左手くん」が別々の好みの服を選んでしまい、毎日苦労します。
この事実は、「服を選ぶ」ということを決定する(1つだけの)中心は存在していないことを表しています。昔の人はこの事実を「だから左右両方に中心があって、互いにコンセンサスを得るようにしている」と思おうとしました。しかし、じゃあ脳梁でどういう信号をやりとりするのかとか、それなら脳梁の中央に中心があるのではないかとか、具体的に非常に難しい説明を迫られます。

行動の決定は自我(意識)が知るよりも0.5秒早い

ここをばっさりと、服を選ぶという決定は、沢山の脳モジュールが服を選ぼうとか赤だとか黄色とか勝手な情報を出していて、その中の主流派が決定されると思えば、簡単になります。どこかの脳の部位がどんな行動をするか選ぶ最終決定を下すのではなくて、腕などの出力を束ねる部位にたどり着くことができた情報が、「自分が選び取った行動」になる、ということです。まぁ、あたりまえでしょう?
これも非常に有名な研究で、行動開始のための「脳の準備電位」は、行動することが自我(意識)に上るよりも0.5秒早いことが示されています。自我は脳内情報の追認器官なのです。

自我は脳内情報を追認してこじつける

自我と脳の実験的な考察について良く書いてある本としては

自我が揺らぐとき―脳はいかにして自己を創りだすのか

自我が揺らぐとき―脳はいかにして自己を創りだすのか

があります。これには色々な症例がでてきますで、詳しくはそれをみていただくとして、注目したい点を書きます。
ここに出てくる脳に損傷を抱えた患者でよく見られる現象として、絶対に知らない情報(答えさせてみると正しくは言えない情報)についても、「自分は正しく知覚している」と主張し様々なこじつけをするケースが多く見られることです。また、無いはずの手を動かしたと主張することもあります。
これは、自我が直接入出力とつながっていないことの証拠であり、また、入出力との双方向的な正しいフィードバックがなくても(ありとあらゆる「妄想」を働かせて)正しいと「こじつける」という証拠でもあります。自我は入力とも出力とも直接つながっておらず、ただ、こういう入力があって、こういう出力を「しました」という情報を受け取って、その行動を正当化する器官なのです。
よく選挙やイラク派遣のあとに、勝った政党や実行された政策の支持率が上がったりすることがありますが、あれもそもそも何かいちいち「理由」があって何かを選び取っているわけではないという自我の性質なのではないかと思ったりします。

脳ってWindowsプログラミングみたいなもんじゃないの?

ここまでをまとめておく。今までの脳科学者は、情報の流れを 入力→A→B→中心→C→D→出力 みたいな形で表現したかったみたいなのだけれど、それはちょっとN88-BASICのシングルタスクてな感じでprimitiveすぎだと思う。ずらーっと1つのファイルで脳が記述できるわけないじゃん。(笑)すくなくとも脊髄反射とか、脊髄がすぐに反応する現象もあるのだから、中心が一つしかないわけはなかったのだ。小脳反射とかブローカー野反射とか、そういうのの複合反応で行動が決められる。
それでも中心が欲しい、自分がいろいろ決めているんだという人は、マルチタスクで動くコンピュータやWindowsプログラミングを思い浮かべて欲しい。

「ウインドウを閉じる」が押されたときの動作とか「ファイルを開く」が押されたときの動作とか、ばらばらの動作を記述しているだけなのに、あら不思議、一つのまとまったソフトのように見える。
実際の処理をよく見てみると、一つのコンピュータで動いているかもしれないし、実はブラウザとサーバーのコンピュータがAjaxで連携して動いているWebアプリかもしれないし、とっても一つのファイルのプログラムでは書けないものだ、って考えるのは非常に素直な考え方だ。大体、統一的に行動を決めている何らかの器官があるという証拠はそもそも一切無いのだから。人間の行動はバラバラの部位が決めてるって事でFinal Answerでしょう。

脳はフレキシブルに行動するための情報分析器官

じゃあ、自我といわれてきたものは何か?そしてその機能はなぜ必要なのか?つう疑問なのだけれど、それは生物の系統進化を辿ってみれば推論できます。

外部からの情報を基に自分が繁栄できるような生存戦略をすることは、生物にとって重要で、絶滅しなかったような生存戦略をとったDNAを持つ生物だけが繁栄します。可能な情報分析法と出力法(空が飛べる、等)を発達させて
各々の生物は生き残ってきたのです。じゃあ、生物はどのような情報をどう利用してきたのでしょうか?

例えば、単細胞の光合成生物では、鞭毛という泳ぐための脚に当たる部分の根元に眼点という眼がついていて、光が当たる方向に泳ぐことができるようにできています。つまり情報は固定的に光→運動とつながっています。
それがだんだん複雑化してきます。例えば植物では、種は各々の植物が良く育てるよう最適な水、温度、日照条件と「春が来たこと(一定期間温度が下がったこと)」などたくさんの情報を認識し、発芽するようにできています。

動物の方はさらに3次元に活動できるので、より複雑化を遂げていて(まだほとんど解明されていませんが)、様々な外部情報を取り入れ、しかもある程度フレキシブルに行動できる奴らが多くなってきました。これには神経系が重要な役割を果たしています。もっとも原始的な集中神経系はタコやイカの仲間で知られているのですが、ある程度の情報を積極的に集約化する器官(脳)が(解剖学的には)登場します。そして、軟体動物、ホヤなどの原索動物、魚類、ほ乳類と人間に近い種ほど脳が発達しています。この段階で、視覚情報などから「外部の生物のまとまりを認識する」という機能はかなり初期にできているようです。

自我は、情報分析の派生産物(だろう)

その外部の生物の認識機能を自分の行動決定予測と統合したのが自我の始まりではないか、と僕は推論しています。

例えば、鏡を自分と認識できるか否かという実験があるのですが、これは限られた範囲の生き物しかできない高度な技です。人間でも子供にはできません。カラスはよくガラスにぶつかったりしますね。
多くの動物は他人の動向についてはかなりシミュレートできても、外部から受け取った情報に自分の陰が含まれていることは情報として使えなかったと言うことです。さらに、風景に写る他人が自分に似た(同じでない)意識をもつとシミュレートすること、それが人間ではできるようになった。そしてこの機能の実現と前後して脳は肥大化しはじめます。人間には外部の情報に自分そのものを含む、自分同様の情報処理をする生物がいるというシミュレーションができるようになったのです。

この仕組みは「心の理論」といわれたりもします。サリーとアンの実験と言う自閉症のテストが有名で、要は幼児などでは外界を神の視点ひとつから見ているのだけれど、発達すると、各々の立場が持っている情報が違うことを認識できるようになります。そして、この他人の行動予測機能は、起源の古い(A)他人を認識するモジュールと(B)自分がどう行動するかをきめるモジュール、さらに(C)それぞれの生物に関する一次記憶を統合したモジュールで可能になります。このような、あるパラメータが与えられたときに「それぞれの生物が行う行動(そして自分もする行動)」を自己参照的にはじき出し、シミュレーションして良い行動を考えるモジュールが、自我の元ということになるでしょう。

振り返って、じゃあ「自我」だと感じていたものは…?

自我は、「行動できる自分ではなくて、他人や外界を見るような目で見た自分(知覚できたり操れたり可能性がある部分;入力と出力で同調している部分)」のことなのでしょう。

コンピューター上でバラバラに記述されたプログラムを「一つのプログラム」という人格だと認識してしまうように。また、他の人間にも、ネコにもイヌにも、そして起き上がりこぼしにも「人格」を感じてしまうように、人間はどんなものにも「人格」を設定し、外界を分類するように情報把握しています。それを自分自身の存在にも適用したのが自我です。自我は情報把握の副産物だったのです。

しかし、自我はあくまで、外界の行動を予測することを基礎に作られているので、瞬間的に働きかけることが出来ません。自分の行動も視野に入れてシミュレートしつつ、変化の情報を受け取って、総合的・中長期的な今後の活動の指針をあたえている部分なのです。他人との人間関係と同様、瞬間の行動ではなく、長い間に少しずつ変化していく変化の方向につっこみをいれるために、事前に準備しているのです。

そんな説明でpolitically correctなの?

ま、いままで「説明がつかない」と言われていたことなので、どんな説でもとりあえず説明がつく論なら、実験して無くても(対案無き場合)正しいとしか思えないわけで、正しいのだろうと思います。なんだか非常にあっさりしていますが、人間だって所詮、1生物、とそういうことだと思います。

自我がすぐの行動を制御できないからといって、いじけることはありません。自我は今後の行動を制御するために人間付近にのみ備わった特殊な能力なのだから、それを生かさないのはモグリでしょう。

さて、バリバリ意識を働かせて、今後の最適戦略について想いを巡らせていきましょうか。